髑髏城の機構故障による公演中止への思いのたけ

2017年11月29日の早朝、私は新幹線で仙台から東京へ向かった。
この日は数か月前から楽しみにしていた髑髏城の七人season月の下弦の月公演で、友人が取ってくれた素晴らしい座席で観劇の予定だった。
激務であまり休めない中、必死の思いでもぎ取った有休を使ってのマチソワ観劇。しかも実力派ぞろいのキャスト、連綿と受け継がれてきた「髑髏城」の看板に負けることなく評判も良いと聞いていた。

今回が初めてのドクロシリーズの観劇で、この日しか都合がつかなかったため、期待もひとしおだった。
ワクワクしながら会場入りし座席につくと、そこはまるでアトラクションのようで、視界に収まりきらない湾曲したスクリーンは確かに圧巻の一言だった。
けれど、無残にもその期待は打ち砕かれた。
機構トラブルによるクライマックス直前での公演中止、そしてさほど間をおかずにソワレの中止も決定したのだ。

宙ぶらりんだった。
キャストに怪我がなくて何よりだと思う。スタッフが裏でリカバリーに努めていただろうことも分かる。観客ももちろんだけれど、悔しいのは座長を始めとした演者一同とそれを支えてきた人たちだ。どんなに万全を期しても、地震や火事なども含めてどうしようもないトラブルだってあるだろう。
けれど興行側には、チケットを買った観客に対して「公演を終わりまで見届けさせる義務」がある。
そして2017年11月29日の公演は、もうこの先二度と行われることはないのだ。

以前の風公演でも同様に公演中止になった日があったと聞いた。振替公演と払い戻しで対応とのことで、誠実な対応だと思う。
けれど考えて欲しい。大都市に集中する公演を観るために、全国各地からさまざまな人が、「お金」と「時間」という非常に大切で貴重なものを払ってここまで来ているのだ。
振替公演はありがたい。けれど振替日に29日に観られなかった全員が集まれるなんてことはないし、チケット以外にかかった金額は返ってこない。移動に使った時間への対価は「観られなかった悲しみ」だ。

お願いだからトラブルに慣れないで欲しい。チケットを払い戻せば解決、なんて簡単な話じゃない。二度あることは三度ある、なんて本当に冗談じゃないんだ。私たちは慈善で舞台観劇をしているわけじゃない。
「お気持ちお察しします」「でも一番つらいのはキャストだから」「推しにエールを送ろう!」とか正直もうそういうのいいんです。
もう二度と同じことが起きないように、原因の究明と対処の報告を私は望んでいます。

さらっと考えてみた昨今の舞台界隈のマナーと闇についての散文

最近、舞台オタの界隈で色々と取り沙汰されているマナー問題だとか公式凸の問い合わせの件とか先人の暗黙のルールがうんちゃらかんちゃらとか。分かる分かる〜と思いながら楽しく読ませてもらっている。

ネットやSNSが普及した昨今、公式や運営との距離が近づいたことで一個人の意見が言いやすくなった面があると思う。
それはとてもいいことだと思うし、過去に傍若無人に振舞っていた運営(一部)が、消費者たちの声によって姿勢を改めざるを得ないことも多くなってきた。
何かあればすぐ晒されるし、ニュースになるし、世論が許さない。
下手な対応をしたらそれこそ謝罪文出さないといけないし、担当者は始末書を書く羽目になるわけだ。
けれど、ふと思うことがある。
何事も行き過ぎは良くない結果を呼ぶ。

これを書いている私はアラサーであり、同人活動を始めたのは中学生の頃だ。
その頃の環境といえば主な通信手段として電話、手紙、プロバイダメールか携帯を持っていればキャリアメール。
インターネットを繋いでホームページを作ってメールフォームを設定して、お絵描き掲示板に夜な夜な集まって、HTMLなんてすらすらかけたらもうそりゃすげえな!?みたいな世界だった。私のSNSの始まりはmixiだったけどそれすらもっと先の話だ。
もちろん、ネット環境が整っていない多くの人間達も同時に活動に参加しているわけで、こういう時ってどうしたらいいんだろう〜分からん〜みたいなことをすぐにお手元のスマホでお調べすることはできなかったし、ツイッターやら公式お問い合わせフォームやらカスタマーサポートなんかからホイホイ聞くようなこともあまりできなかった。
問い合わせるなら電話。だいたいスタンダード。

そして同人界隈のマナーというものは、まとめサイトみたいなものも確かにあったが、文化としてはグレーゾーンでありおおっぴらにはできないものだった。
あの時の自分が今のこのおおっぴらさを見たら、またまたご冗談をって呟いてしまうくらいには息をひそめて生きていた感がある。ソルジャーみたいだった。
そこで何が出てくるかといえば、口伝だ。先輩たちにいわゆる実地で教えてもらうわけだ。
もちろん失敗だってする。だってわからないから。知識がないから。まだ誰もそれを教えてないから、なんとなくでやってしまう。
でもたった一回のその失敗を、先輩たちがこぞって攻撃するようなことはあまりなかった。
あ、知らなかったんだね〜じゃあ次からはこうした方がいいよ。こうするともっと分かりやすいよ。これは公式に迷惑がかかるから。このやり方はあんまり好まれないから気を付けた方がいいね。

そうやって色んなことを教えられて、その教えられたことを次に何も知らない人に出会った時に教えていく。そういう流れができていたように思う。
まあ時代も状況も違うから、今には今のやり方がある。懐古主義ではないが、あの頃楽しかったな〜って思うことがたまにあるくらいのものだ。

それに関連付けて最近、Twitterでよく目にするネットリンチを見ているとすごいなって思うことが多々ある。
間違いを犯したり、馬鹿なことをやった人間は確かに馬鹿でアホなんだろうし、頭も足りてないんだろう。
さすがにこの高度な情報社会で「知らないことは罪じゃないよね!じゃあ教えてあげればいいんだよ〜」とはもう言えないし、知る努力をしろと思うケースはたくさんある。
でも、それだけではないのではないか。
正しいと思われるもの(あくまで思われる、に過ぎない)に意見が傾いて、皆がそれに賛同して、悪いと思われるものを一斉に攻撃する。その攻撃かつ口撃の仕方がとてもえげつない。
正直口汚すぎて、どっちが正義かと思うようなこともしばしばだ。鬼の首を取ったようにというか、お前が鬼だろって思うことが往々にしてある。
みんなストレス溜めてんのかな〜毒のはけ口そこにしてんのかな〜それにしても自分に関係ないことでよくそこまで騒げるな〜楽しそうだな〜と眺めて楽しんでいる。
むしろ自分に関係なくて火の粉がかからないこそ好き勝手言えるのかもしれないが、何百何千、あるいは万という人間が一個人を血祭りにあげようとしているのを見ると、狂気を感じて楽しい。
人のふり見て我がふり直せ。火事は対岸から眺めるのが一番安全だということを忘れないようにしたい。

ついでだから私個人のちょっとした意見を言っておこうと思う。
最近チケットの取引をすることが増えてきて、プロフィールに20歳以上ですって書いてある人をよく見かける。
もっとあからさまだと未成年とのお取引はしませんと言い切っている人もちらほら見かける。
これは前述した、まだルールを知らない人間〜のところにもかかってくるし、火事は対岸から見るのが〜というところにもかかってくる。不安の芽は早々に摘み取っておく、というより種すら撒かせないのが賢明だということかな。
ただ、私が見てきた中で言えば20歳を超えていても頭の悪いやつはいっぱいいるし、礼儀がきちんとした未成年もたくさんいる。
話し方ひとつ、Twitterの文章の書き方ひとつとってもその人の人柄が知れる部分もあるし、最終的にその人を信頼するかどうかは、少ない情報を精査する自分の目にかかっているわけだ。
成年しているということは、責任能力があるということの証明でもあるから書いてても別にいい。
けれど最終的に自分の身を守れるのは、自分の審美眼と第六感にかかっているのかもしれない。

まあちょっと落ち着いて思い出してみて。
未成年の自分はそこそこ痛々しくなかったか。

ないなら良かった、あるならそこそこ健全だから安心して、思い出したくないレベルなら楽しい未来を生きてこうぜってことで、私は明後日の舞台のチケットの当落に気が気じゃない。